トシノスケ哀歌



まだトシノスケは頑張っているのに、この話を書いています。

トシノスケ登場
阪神大震災の年、我が家は2月に神戸から生駒に転居した。 転居日程は早くなったけども、決して地震が原因の転居ではなく、仕事の関係。 目の前には小学校、東に50Mも行けば大きな公園がある抜群の環境で、我が家で始めての一軒家(賃貸)生活。

その年の冬にトシノスケはやってきた。 学校の校庭でウロウロしていた野良犬が、掃除当番で遅くまで学校にいた息子について来たと云う。 やめれば良いのに。。。、どうやらママが餌をやったらしい。 仕事から帰ると借家の庭に白い成犬が寝ていた。

私は田舎で育ったので、子供の頃から沢山の仔犬を拾って飼っていた。 幼稚園時代には拾ってきた仔犬数匹に囲まれて庭の犬小屋で一緒に寝ていた記憶がある。そんな子供時代を過ごしたので、「犬をペットショップで買ってくる」なんていう犬との出会いは信じ難く。。。。

雨の降る日に子供が仔犬の入ったダンボールを抱えて家に帰り、

母親: 「家では飼えないから捨てていらっしゃい!」
子供: (泣きながら。。。。) 「僕がゴハンをやって、お散歩も連れて行くから。。。。 お願いだから飼ってあげてよ。。。。」

という展開が唯一、犬を飼う時のシナリオだと信じていた。

「トシノスケがやって来た日は雨ではなく晴天」 
「ダンボールに入るような仔犬ではなく、りっぱな成犬」 
「息子はあっけらかんとしている」

などなど、当初の想定とはかなり外れた展開だった。当時は、一軒家とはいえ借家に住んでいたのでトシノスケを飼う決心がつかず、

「家では飼えないから、餌はやるな」
「家の庭に入ってきたら追い出せ」

と妻に厳命した。家の門の下にバリケードを作り、進入阻止を試みたにもかかわらず、翌朝も眼が覚めると、リビング前の庭で丸くなっていた。

「そんなに我が家が気に入ったのか。。。。。?」、私もだんだん「仕方が無いか?」と云う気になってきた。決心のつかぬまま数日経ったある日、娘が熱を出した。妻と娘を乗せて、近くの病院に車を走らせるとトシノスケがタッタッタと着いてくる。我々が病院にいる間はずぅ〜と、駐車場で待っていたらしく、娘の診察を終えると、またまた走って着いてくる。 こんな健気なトシノスケを見て、ついに我が家に置いてやる決心をした。 早速、不動産屋に連絡をして、

「息子が阪神大震災の影響による心的外傷後ストレス症候群(PTSD)で情緒不安定になっている」
「PTSDの対症療法としてペットを飼うことが効果的と聞き、犬を飼ってやりたいので、オーナーに許可を取って欲しい」

と口から出まかせの交渉をしたところ、理解あるオーナーが屋外飼育を条件に認めてくれた。

まだ幼いマーオに優しい あまりの嬉しさについつい押し倒してしまう


私の犬を飼う場合の決まったシナリオとして、「雨の日のダンボール」と、もう一つ「犬小屋はお父さんと一緒に拾ってきた板切れで造る」というのがある。 子供の頃、あちこちに建築中、工事中の家があり、そこから外枠用の長板を拝借して、父親が上手に犬小屋を造ってくれた。我が家にトシノスケを迎え入れるにあたり、早速、息子とあちこち歩き回って、建築中の家々から長板、その他の木っ端を拾い集め、犬小屋を造った。 入り口と屋根の間には「トシノスケのいえ」と書かれていることは云うまでもない。 子供の頃から図工が苦手だったせいか、私の父親の作品に比べると、はるかに出来が悪い。

借家にきたばかりのトシノスケ お色直しをした犬小屋(屋根は着脱式)
作製は1996年 お色直しは2001年

物心ついた時に初めて「ペーター」の死を看取り、泣きながら「大きくなったら獣医さんになるんだ」と思った。 その後、北の大地の大学に行っているときに「ヤマト」が逝ってしまった。 そういう道に進んで、そういう学問を学んだにもかかわらず「ペーター」との約束を果たせないでいる。またトシノスケにも何もしてやれなかった。

今年の3月、肥満細胞腫だと診断されて翌週には手術で摘出したが、病理検査の結果は「Stage2」。 200日生存率でさえ、わずか15%。。。 つまり残された時間は半年にも満たない。 ステロイドに反応性が強いと記述があるので、術後はステロイドを服用させたが、トシノスケがステロイドに弱いらしく激しい下痢と削痩に耐えられず投与を断念。 5月には鼠径リンパへの転移が発覚した。

トシノスケが我が家に登場して1周年 幼稚園に行く前にはいつも挨拶

子供の仲間
「PTSDの息子のセラピードッグとして。。。。」などと口から出まかせで、飼うことを許してもらったトシノスケ。 実際に息子や娘の心の友になってくれた。 もともと学校の校庭を彷徨っていただけあって、とても子供好きで、息子や娘が友達を連れてきても決して咆えたことが無い。 水道メーター点検の人や工事のオヤジ、郵便屋などが入ると凄まじい剣幕で吠え立てるのに、妻の友人(女性)と息子・娘の友達(子供)には尻尾をブンブン振ってお出迎え。 女好きはどうやら私に似たらしい。

我が家に来て1年も経たないうちに、家族にとってなくてはならない存在になっていた。私にとっては子供の頃に飼っていた犬とは違い、自分が所帯を持って初めての犬と云うことでトシノスケの比重は非常に大きい。

トシノスケは我が家にとって最高の友でした。 私や妻の気持ちをとても良く理解し、物分りも良く、子供達にも優しく、そして、ネコちゃん大好き。。。。。 本当に本当に、みんなの心を癒してくれる素晴らしい我が家の一員でした。


2005年9月10日(土)17:30 トシノスケは逝きました。 ここから先は、お通夜の夜にトシノスケの横で書いています。

ネコ大好き!!
ママが猫好きなため、トシノスケが我が家にやってきた当初から、我が家には猫がいた。 初代は、「シッポニャン」、その後、「サンチャン」、「ネオニャン」、「シシマル」、そして「ナオちゃん」、ママ、そしてママの猫好きの血を引いた娘が次から次へと拾ってくる。 トシノスケは室外犬で、風邪をひいた時くらいしか家に入れてもらえないのにネコ達は、いつも家の中。イヌは集団生活の狼の血をひくために順位・地位の感覚が強いと云う。 可愛そうに、トシノスケは室外飼育と云うことで、後から我が家の仲間になったネコ達よりも順位が低いと認識しているらしく、我が家のネコ達にも優しく接する。

嫌がるサンチャンをペロペロ あんまりしつこくて怒られちゃいました
シシマルは大喜び 嬉しそうにじゃれ合う2人

一番最近、我が家の仲間になった「シシマル」とは大の仲良し。 激しい雨の日などにトシノスケを家に入れてやると、2人はくんづほぐれつじゃれあって、もう大変。

山行の友として
我が家に来たばかりの頃は、子供も小さかったので、当時の愛車「エブリー号」の荷台にトシノスケを乗せて、近場のアウトドア・ハイキングを楽しんだ。 手始めは、布目ダムへのドライブ。 まだ我が家に来て数週間の頃かと思う。。。。 ダム湖でトシノスケを放してやると大喜びで駆け回る、 ついつい興奮しすぎて、いくら捕まえようとしても逃げるばかり。 とうとうママがブチ切れて、「それなら、我が家に置いてやらないから、勝手にどっかに行っちまえぇ〜!」。 やっとの思いで、捕まえて、「ふぅ〜 もう放さない。。。。」

それからもしばらくは、近所の公園や府民の森などでリードを放す訓練を行う。 やはり、放浪犬だったためか、リードを放すと、ついつい自由勝手に行動したがり、放したら最後、捕まえるのに一苦労。 そんなこんなでパパとアチコチの野山へでかけるようになった。 

「山歩きをして疲れて帰ってから、トシノスケの散歩は辛い。。。。」
「それならいっそのこと、トシノスケも山行に連れて行った方が楽」

と云うのが最大の理由となり、トシノスケと山へ行くようになった。

私の山行パートナーは、初期は息子、さらに娘、その後はMLネット仲間と変遷していった。 けど、結局、パパとの山行回数が一番多いのはトシノスケ。

お決まりの行き先は、車で20分程度の「府民の森 くろんど園地」。 寝坊して遠出山行が無理な週末はいつもトシノスケと「くろんど園地」。 隅から隅まで、ほとんど全ての道を歩き尽くした。

尼ヶ岳 「千秋峰」

最も思い出深い山行は、やっぱり「行者還岳」かなぁ〜。 トンネル西口からテントを背負って行者還岳へ行ったときのこと。。。。高塚山方面へ寄り道したら、尾根の登山道からトシノスケが鹿を追いかけて迷子になった。 1時間以上の遭難&捜索の結果、トンネル西口の駐車場で待っていたトシノスケを発見。 あの時は思わずトシノスケを抱きしめた。 、と同時にトシノスケの帰巣本能とルートファインディングの的確さを改めて認識させられた。 トシノスケと一緒なら遭難・道迷いの心配はないだろう! なんてったって、地図も持たずに的確に元来た道を歩けるのだから。

行者還岳で迷子になったトシノスケ 大峰大好き

さようならトシノスケ
5月に鼠径リンパへの転移が発覚してからは、打つ手もなく、ただただリンパ節の腫瘍が大きくなるのを見ているだけになってしまった。 今さらながらに考えると、放射線療法を行えば、鼠径リンパの腫瘍があそこまで大きくならずに済んだかもしれない。

7月には、観音峰へ最後の思い出つくりに行くことになってしまう。ちょうどその頃は観音峰も素晴らしい季節で、トシノスケも最高の展望を楽しめたに違いない。

観音峰の写真は、トシノスケの遺影のつもりで撮影しました。 空の色も最高のブルーで、ちトシノスケも観音峰展望台から見渡せる山上ヶ岳、稲村ヶ岳などの大峰の山々を眺めているようです。

人間は歳を取るとドンドン我ままになると云うが、トシノスケも死期が近づいてからは、急に頑固・我侭になり、散歩に行っても歩こうとしなかったり、歩く道に好き嫌いをするようになった。

8月にはリンパ節の腫瘍が自壊を起こし、歩くのも辛そう。 小豆大の腫瘤が体中の皮膚にできてしまい、見るも無残な状況になってしまう。 外においておくわけにも行かず、屋内での療養生活を開始。 腫瘍の自壊部分が化膿を起こし、家中が強烈な匂いで、とても室内療養を続けられる状況ではないのに、ママが文句も云わず、献身的な介護を続けてくれるのには、本当に頭が下がった。 トシノスケもここまでしてもらえれば、もう何も思い残すことも無いハズだ。どんどん無残な姿になっていくトシノスケと、悲惨なトシノスケを介護しているママの両方が消耗していくのを見ていられず、何度も安楽死を選択しようかと思った。

8月中旬以降にはとうとう大好きだったお散歩にも興味を示さなくなる。 それでも屋内での療養中は、朝夕にすぐ前の公園までヨタヨタとトイレに出かけ、最後の最後まで、決して家の中で粗相をしない利口さと健気さに涙を堪えきれない。

9月に入って、「もう今週中にも危ない」という状態になったが、運悪く水曜から金曜まで東京出張が入ってしまう。 

「出張から帰ってくるまで頑張るんだゾ!」

と心の中で思い、台風の中、急遽、火曜の夜に東京に向かうことになった。 水曜日にママから、「嘔吐や下痢が始まり、そろそろヤバい」との連絡が入る。 木曜日には心配で、東京のホテルで眠れない夜を過ごすハメになる。金曜にやっと仕事を終え、昼過ぎに半休を取って、急いで生駒の自宅へと駆けつける。 まだかろうじて、私のことは認識できるようで、声をかけてやると、尻尾を振ろうとする。 呼吸は荒く、息をするのも辛そうで、見ていてこちらまで辛くなってしまう。

「ゴメンな、こんなに辛いのに、出張の都合で、戻るまで頑張れ!なんて。。。。。」
「精一杯頑張ったから、もう頑張らなくって良いよ」
「大好きなネコどもも傍にいるし。。。。。」

土曜日の昼過ぎに、トシノスケが声を出す。 何かを訴えているようだ。 昨日から食事も摂らず、水もほとんど飲めていない。 ガーゼに水を含ませて口に持っていくと、ゴクゴクと喉を鳴らせて水を飲む。。。。。が、30分もしないうちに、すべて吐いてしまった。 

ちょうど夏休みの部活に出ていた娘から電話があり、今にも夕立の降ってきそうな空模様の中、車で迎えに行く。

「トシ! まぁ〜たん 迎えに行って来るからね。 すぐ戻るヨ」

と声をかけて出かける。出かけてすぐに雷が鳴り出し、典型的な夏の夕立で、どしゃ降りとなる。 迎えに行くと、娘はすっかり濡れ鼠となっていた。

「トシノスケ、 もうヤバいんだ」。
「帰ったら、すぐに、トシ! ただいま!って、声かけてあげるんだヨ!」
「うん、 判ってる。 いつも帰ったら声かけてあげてるよ。。。。」

渋滞の中、車をすっ飛ばし、大急ぎで帰宅。娘が家に入って、「トシ! ただいま!」。 玄関の中で、すでにママが泣いていた。 まだ、触ると暖かいトシノスケの横でボロボロ涙で声をかけている。 我々が帰る3分前に、トシノスケは逝ったらしい。 

「金曜日に逝くのは、パパと過ごす時間が短すぎる」
「日曜日に逝くと、葬儀が月曜日になってパパが会社を休む必要がある」
「まお に最期を見せるのは酷すぎる」

最期の最期まで、計算し尽くしたトシノスケ。 私はそう信じている。

そして、ずぅ〜と思っていた台詞、
「もう、頑張らなくて良いんだよ」
「ゆっくり眠って。。。。。」
「もっと、お山に一緒に行ければ良かったネ!」

まだ続くどしゃぶりの中、ドライアイス、仏花、線香、全てを揃えて、トシノスケの通夜。

翌朝、我が家の先住ネコ達もお世話になった、ペット・メモリアルパークで、荼毘に付す

もう、精一杯、頑張ったから。。。。。
安らかに眠ろうネ!




ピッケル君のアウトドア






























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